ドミノへを読み終えた後に出た一言は
「もう、ナツとセバスチャンに会えないのかぁ〜…」
でした。
読書といえば、実用書や雑誌時々文庫本、という「読む習慣」が浅い私、丼丼ですがなぜ616ページもの長編ミステリを読み終えることができたのか。
ドミノへを3回目か4回目に読み終えた頃、素人なりにあれこれ考えて、こうたどり着きました。
「そっか、馴染みのあるフォーマットだから難なく読み進められたのか!」
そうなんですよね。ドミノへって、突飛で一方的な小説ではなかったのです。
幼い時にはまった、映画版「ドラえもん」、小学生の時に読んだ江戸川乱歩の「怪人二十面相」や「ズッコケ三人組」を思い出しました。
代わり映えしない毎日の中に、突如訪れる非日常の出来事。いつもの仲間とどう立ち向かっていくか。そして非日常を共にする中で芽生える感情とは。
ざっくりと、「ドミノへ」もそういう物語です。
意識せずとも馴染みのある流れだから、抵抗なく読み進められたのだと思いました。
そして、小説を読んでいると作品の世界が頭に浮かぶことがあるでしょう。逆に言うと読み手の頭に、光景を描かせるための筆運び。
浮かぶんですよ。希星学院高校と登場人物たちの輪郭が。そして読み重ねる中でディティールがはっきりしてくるのです。
「ドミノへ」は猫山の処女作とはいえ、そうした体験が得られる作品でもありました。
「それならば、有名なドラえもんや怪人二十面相を見ていればいいじゃないか」
という声が聞こえてきますね。
そこはやっぱり「猫山ワールド炸裂の面白みが」あるわけですよ。このオリジナリティはよそでは味わえません。
いくつかポイントがありますが、何よりも結末。
どういう結末か。こればかりは書けません。
ネタバレうんぬんの前に書けません。
結末を読み終えて本を閉じたとき、後に残されたのは、炭酸水が弾けるあっけない爽快感にも似た感覚でした。
つい今まであったのに、次の瞬間には無くなっている。
あるものが無くなる、と言うだけでは、それは「喪失」ですが、ドミノへにおいては違いました。
まさにサイダー。あるものが弾けて、あぁもう一口。
それを味わいたくて何度も読み返しているような気がします。
食べ物飲み物以外でこういう感覚を得たのはほとんど無いような気もします。
そうか。
結末の、ある種の清々しさとは、616ページを読み重ねた人へ作者からのプレゼントなのだ、きっと。
「最後まで読んでくれてありがとう!物語を頭に入れてくれたお礼に、よそでは味わえない感覚を差し上げましょう」
そういう猫山の声が聞こえたような、聞こえないような。
ただ、もう少し足すならばこうです。
「あ、この結末って劇中だけにとどまらないのではないか」
「これまで書き貯めた原稿用紙を作者自身が否定するのか」
「私が作者なら、この思い切りは書けるだろうか」
「劇中がミステリなのは当然として、作者が作者自身を裏切るという意味でもミステリ」
あまり書くと先生に怒られてしまいます。
今回、書生として販促活動を担当するにあたり、書店めぐりをしました。
自費出版ということもあり、辛い言葉を耳にすることもあった中、とても温かい言葉もいただきました。
「自費出版であろうが商業出版であろうが、街の人に馴染むと感じた本を届けたいのです」
積ん読にもピッタリのきれいな装丁!長編ミステリドミノへ。
ぜひ一家に一冊、一社に一冊、一校に一冊、いかがでしょうか。
書生 吉田丼丼