先を急ぐか、なんて映画やドラマでしか聞いたことがない言葉が自分の口から出たときは、少々笑ってしまった。
往時の旅人も、ちょうど疲れがたまるこの時間に座りたい気持ちを振り切って次の宿場まで歩き切ってしまおうと思ったのかな、などと空想するのが楽しくてしかたがない。
先日歩いた道はまさに僕好みで、思い返してみるとスタートのときから仕上がっていた気がする。
ここらは国道からはずれた田舎のどこにでもあるような見慣れた住宅地で、奈良井や馬籠のような当時の姿を存分に残すわけではないが、それでもところどころに宿場町の名残がある。
ちょうどよい具合で暮らしと歴史が地続きで混じり合う。
迂回路またはサブルートと呼ばれる、当時荒れ狂う川を避けるようにつけられた上のほうの山あいの道を本当は行きたかった。
せっかくの冬である。
うっすらと雪が残る林の中や土の上を歩くほうがいかにも孤高の街道歩きではないか、というだけの理由だがあいにく南国育ちの僕は雪道を歩き通した経験がほとんどない。
一応に備えてチェーンスパイクを持参してはきたが、最寄りの駅についた朝8時前、まだ迷っていた。
数年に一度の暖冬で、雪深いと言われるこのあたりにも雪が降った形跡はない。
いくら暖かいと言っても南の島じゃあるまいに、と思っていたのでこれには少々驚いた。
しかも雲ひとつない晴天でこの後も雨の予報は出ていない。
この調子なら上のほうでもいけるかもしれないと心に決めたとき、タイミングよくタバコを吸いに外へ出てきた地元のおじさんに出くわす。
「おはようございます。雪、ないですね」
「今年は雪が少ない」
そもそも人が少ない地域の休日の朝、まさか住民の方に出会えるなんて想像にもしていなかったから、僕はうれしくなった。
朝はいい。挨拶をすることが自然で、不審者とは思われない。
「上の方の道をいきたいんですが、これだけ雪がないからいけますかね?」
「いやぁ、雪はないが凍結している。車もすべる」
アスファルトの国道を行こう。あっさり当初の希望を覆す。
ちなみにこの選択が当然にも間違ってなかったと知るのは、再び当地を訪れた3か月後の春のこと。
あの道を冬に不慣れな僕が歩き通すことは仮にチェーンスパイクを着用したとしても無理だった。
歩けば歩けただろう。
しかしその歩みはきっと遅く、夕暮れまでにゴールできなかったろうことは想像に難くない。
タクシーが来るまでの時間は少々恥ずかしくて心細い。
タバコのおじさんに会ったらその節はありがとうございました、と伝えたかったけど再会できなかった。
(続く)