劣等感と石の話

ここはかの武将が築いた……

西暦16XX年の戦いで敗れた大名たちが……

この道路は、XX街道ができたXX年から変わらず……

例えば旅行で行った先のガイドさんの口から、こういった由来や歴史や言われがサラッと口から出てくるところを見ると物知りですごいな、と思う。

歴史だけに限らず、海でも山でも街でも動物、植物なんでも。

本当ならばその中身に感心するべきところなのだろうけど、知識が湧いてでる様子に圧倒される。

なんでこんなに知っているんだ、と。

好きだから勉強しているのだろうが、その熱量や好きな気持ちといったあいまいなものを、勉強することで形づけているその姿勢になんてこの人は前向きなんだろう、素晴らしいな、と尊敬の気持ちでいっぱいになる。

そして同時に彼の仕事だからそうなのだ、とでも思えば、少々自分の不勉強さや不真面目さを感じなくてすむからまだいい。

劣等感も自ずとひっこむ。

しかしいつだって平穏な時間はわずかばかり。

一方で、ともにガイドされ解説を聞いていたはずのこちら側の誰かが、

「その時はXXがやって来て〜」

などと具体的な相槌をうとうものなら一瞬にしてうろたえてしまう。

さらにその言葉にガイドさんが「そうそう、そうなんですよ」などと喜び乗ってこようものならもう私は立っていられない。

さっきまで私と一緒にガイドされてたあなたは、本当はあっち側の人間だったんですね。

何も知らない顔をして一緒に聞いていたのはきっとあなたの優しさがそうさせたのでしょう。
世の中の人たちというのは、なんてことない顔をしているがみんな物知りなんだな、と思いながら、なんとなく傍の石柱をなでたりして残りの時間をやり過ごすのだ。

以前こういうことがあった。

都内にあるとある歴史的建造物でのこと。
ここは時間になるとガイドさんによる無料の解説ツアーが行われるのだけど、そうとは知らず一人自由に見て回っていた。

たまたま先行していたガイドツアーにおいついたことでどうせなら解説も、と思い四歩くらい後ろからだまって聞いていたのだが、それに気づいた女性ガイドさんが

「ぜひあなたも一緒に」

とおっしゃってくれたのだ。

その時の客は、友人同士とおぼしきどこにでもいそうなご婦人三人グループだった。

途中参加ということと、女性グループだったのもあり距離は少々置いたままにして私は合流した。

ガイドさんの流暢な解説は目を見張るほどで一瞬にしてとりことなった。こんなにも明朗で分かりやすく、頭にスッと入ってくる言葉に

「せめてこの建物の主人だった人の名前だけは覚えて帰ろう」

と思ったりもした。

建物を一周してさあ見学ツアーも終わり、というところでこれまで静かに解説を聞いていた三人グループのご婦人の一人が、庭の石を指さしてこういったのだ。

「この石は、どこそこの石ですよね」

失神するかと思った。

石か。ラスボスは石だったのか!

屏風絵でも梁でもふすまでも中庭でも室礼でもなく、最後の最後に庭の石で私以外の女性四人は話が盛り上がってしまった。

動揺してしまってはっきりとは覚えていないが、この方は石も好きらしく、旅行にいっては石を見て回っているらしかった。

人はみかけによらない、とは言うがこの時ほどこの言葉が身に沁みたことはない。

そして石のことまではちょっと分からないなぁ、と妙に晴れ晴れとした気持ちになった。

それからというもの、これまであった私のささいな劣等感はあまり顔を出さなくなった気がする。

知らないものは知らないので、知らぬままその場を楽しめばよい、となり、年パスを買ってその後1年間通い、
その後ガイドさんとは文通をするいい友人となりました。