Blog

Blog

書生のブログ

空想だらけの街道歩…

先を急ぐか、なんて映画やドラマでしか聞いたことがない言葉が自分の口から出たときは、少々笑ってしまった。

往時の旅人も、ちょうど疲れがたまるこの時間に座りたい気持ちを振り切って次の宿場まで歩き切ってしまおうと思ったのかな、などと空想するのが楽しくてしかたがない。

先日歩いた道はまさに僕好みで、思い返してみるとスタートのときから仕上がっていた気がする。

ここらは国道からはずれた田舎のどこにでもあるような見慣れた住宅地で、奈良井や馬籠のような当時の姿を存分に残すわけではないが、それでもところどころに宿場町の名残がある。

ちょうどよい具合で暮らしと歴史が地続きで混じり合う。

迂回路またはサブルートと呼ばれる、当時荒れ狂う川を避けるようにつけられた上のほうの山あいの道を本当は行きたかった。

せっかくの冬である。

うっすらと雪が残る林の中や土の上を歩くほうがいかにも孤高の街道歩きではないか、というだけの理由だがあいにく南国育ちの僕は雪道を歩き通した経験がほとんどない。

一応に備えてチェーンスパイクを持参してはきたが、最寄りの駅についた朝8時前、まだ迷っていた。

数年に一度の暖冬で、雪深いと言われるこのあたりにも雪が降った形跡はない。

いくら暖かいと言っても南の島じゃあるまいに、と思っていたのでこれには少々驚いた。

しかも雲ひとつない晴天でこの後も雨の予報は出ていない。

この調子なら上のほうでもいけるかもしれないと心に決めたとき、タイミングよくタバコを吸いに外へ出てきた地元のおじさんに出くわす。

「おはようございます。雪、ないですね」

「今年は雪が少ない」

そもそも人が少ない地域の休日の朝、まさか住民の方に出会えるなんて想像にもしていなかったから、僕はうれしくなった。

朝はいい。挨拶をすることが自然で、不審者とは思われない。

「上の方の道をいきたいんですが、これだけ雪がないからいけますかね?」

「いやぁ、雪はないが凍結している。車もすべる」

アスファルトの国道を行こう。あっさり当初の希望を覆す。

ちなみにこの選択が当然にも間違ってなかったと知るのは、再び当地を訪れた3か月後の春のこと。

あの道を冬に不慣れな僕が歩き通すことは仮にチェーンスパイクを着用したとしても無理だった。
歩けば歩けただろう。

しかしその歩みはきっと遅く、夕暮れまでにゴールできなかったろうことは想像に難くない。
タクシーが来るまでの時間は少々恥ずかしくて心細い。

タバコのおじさんに会ったらその節はありがとうございました、と伝えたかったけど再会できなかった。

(続く)

書生のブログ

劣等感と石の話

ここはかの武将が築いた……

西暦16XX年の戦いで敗れた大名たちが……

この道路は、XX街道ができたXX年から変わらず……

例えば旅行で行った先のガイドさんの口から、こういった由来や歴史や言われがサラッと口から出てくるところを見ると物知りですごいな、と思う。

歴史だけに限らず、海でも山でも街でも動物、植物なんでも。

本当ならばその中身に感心するべきところなのだろうけど、知識が湧いてでる様子に圧倒される。

なんでこんなに知っているんだ、と。

好きだから勉強しているのだろうが、その熱量や好きな気持ちといったあいまいなものを、勉強することで形づけているその姿勢になんてこの人は前向きなんだろう、素晴らしいな、と尊敬の気持ちでいっぱいになる。

そして同時に彼の仕事だからそうなのだ、とでも思えば、少々自分の不勉強さや不真面目さを感じなくてすむからまだいい。

劣等感も自ずとひっこむ。

しかしいつだって平穏な時間はわずかばかり。

一方で、ともにガイドされ解説を聞いていたはずのこちら側の誰かが、

「その時はXXがやって来て〜」

などと具体的な相槌をうとうものなら一瞬にしてうろたえてしまう。

さらにその言葉にガイドさんが「そうそう、そうなんですよ」などと喜び乗ってこようものならもう私は立っていられない。

さっきまで私と一緒にガイドされてたあなたは、本当はあっち側の人間だったんですね。

何も知らない顔をして一緒に聞いていたのはきっとあなたの優しさがそうさせたのでしょう。
世の中の人たちというのは、なんてことない顔をしているがみんな物知りなんだな、と思いながら、なんとなく傍の石柱をなでたりして残りの時間をやり過ごすのだ。

以前こういうことがあった。

都内にあるとある歴史的建造物でのこと。
ここは時間になるとガイドさんによる無料の解説ツアーが行われるのだけど、そうとは知らず一人自由に見て回っていた。

たまたま先行していたガイドツアーにおいついたことでどうせなら解説も、と思い四歩くらい後ろからだまって聞いていたのだが、それに気づいた女性ガイドさんが

「ぜひあなたも一緒に」

とおっしゃってくれたのだ。

その時の客は、友人同士とおぼしきどこにでもいそうなご婦人三人グループだった。

途中参加ということと、女性グループだったのもあり距離は少々置いたままにして私は合流した。

ガイドさんの流暢な解説は目を見張るほどで一瞬にしてとりことなった。こんなにも明朗で分かりやすく、頭にスッと入ってくる言葉に

「せめてこの建物の主人だった人の名前だけは覚えて帰ろう」

と思ったりもした。

建物を一周してさあ見学ツアーも終わり、というところでこれまで静かに解説を聞いていた三人グループのご婦人の一人が、庭の石を指さしてこういったのだ。

「この石は、どこそこの石ですよね」

失神するかと思った。

石か。ラスボスは石だったのか!

屏風絵でも梁でもふすまでも中庭でも室礼でもなく、最後の最後に庭の石で私以外の女性四人は話が盛り上がってしまった。

動揺してしまってはっきりとは覚えていないが、この方は石も好きらしく、旅行にいっては石を見て回っているらしかった。

人はみかけによらない、とは言うがこの時ほどこの言葉が身に沁みたことはない。

そして石のことまではちょっと分からないなぁ、と妙に晴れ晴れとした気持ちになった。

それからというもの、これまであった私のささいな劣等感はあまり顔を出さなくなった気がする。

知らないものは知らないので、知らぬままその場を楽しめばよい、となり、年パスを買ってその後1年間通い、
その後ガイドさんとは文通をするいい友人となりました。

私とクリスティ - 猫山月彦のミニエッセイ

「春にして君を離れ…

で、なんだっけ?
そうそう「春にして君を離れ」でしたね。

本屋さんの棚から抜きだしてはじっと見つめ、それでも買う決心、というより踏んぎりがつかずに、また棚に戻す。を何度も繰り返しました。

私、決める時には割合いスッスッと決めてゆくタイプなのですが、一度迷いだすともうダメ!

自分でもあきれてしまうほど迷います。で、結局失敗する。

今回もそうでした。

大腸がんを経験し、今また肺ガンなんぞの宣告を受けてしまうと、ガラにもなく、思い残すことを少しでも少なくしておいたほうがいいかも…?なんぞと思ってしまい、ついに買ってしまいました。

古本屋さんで、というあたりが我ながらあざといですが…。

で、読んでどうだったのか?

やっぱりミステリーの方が好き。

読み出してワリと早い段階でテーマが分かってしまう。オチも、なんとなく予想していたとおりでした。

それだけに、読み進めていくのにチョットばかり努力が必要でしたが、途中からやっぱりアガサってスゴイ!と思ったのは、小説のテーマをあらゆる角度から浮き立たせているところでした。

ウワー、こんな角度からも表現できるんだ……と、想像もつかない角度からも切りこんでいるところです。

ヘタをすれば単調なくりかえしになってしまいそうなものなのに、厚みを感じる。力量を見せられたように感じました。

ヤッパ読んで良かったです。

私とクリスティ - 猫山月彦のミニエッセイ

「春にして君を離れ…

なんと魅惑的なタイトルじゃありませんか。

この本を初めて書店で見かけたのは、もうずいぶん前のことです。すぐに手にとってガックリ!

なんと、アガサの作品なのにミステリーじゃない……!

当時既にミステリーにハマっていた、というか、アガサにハマっていた私は、人が殺されない話はモノ足りない。

死体が出てこない本は読みたくない、的な状態にありました。

そうです、アガサ中毒になっていたんです。

書店の棚でも圧倒的に目立つあのまっ赤な色。その巾の広いことといったら……。

酒とおんなじ。あんだけの量を読んだら、中毒にならない方がオカシイ。

長短の小説ばかりか戯曲まで飲み干し、否、読み干していた私は読む作品がなくなり、アガサロス症候群まっ只中。違う人の作品を買っては途中で投げだすという禁断症状にあえいでいました。

そこへまさかの「春にして…」ですよ。
アガサがミステリー以外も書いていたってことは知ってました。
でもそれはクリスティではなく、メアリ・ウェストマコットという名前で出していると聞いていたので、てっきりミステリーだと思いこんでしまったのです。

ヌカ喜びさせられたあとの傷は三倍痛い。

背表紙だって赤かったのにどおしてなんだあ!

ちょっと興奮してしまったので、あとはもう少し落ちついてからにします。

私とクリスティ - 猫山月彦のミニエッセイ

派手さはないがひと…

先日、ミステリー好きのアラフォー野郎さんが、アガサの作品の中でも「マギンティ夫人は死んだ」がスゴいとツイートしておられました。同感です。感激いたしました。

私もこの作品はポアロものの中でも推しのひとつなのですが、以前からどうもイマイチ話題になってないんじゃないかな…?
ちょっとみんなの感心薄くね?

なんぞと気を揉んでもいたのですよ、実は。

で、アラフォー野郎さんのコメントが正に、我が意を得たり!的に響いてしまったのです。

そりゃあ、「オリエント急行殺人事件」とか「ナイルに死す」なんかのハデさはない。だけど間違いなく、かなり練りこまれた作品といえるのではないでしょうか?

アガサの作品はどれもひとスジ縄ではいかないもの揃いではありますけど、その中でも、ひと際練りこんでるなあ…と思わせてくれます。

それに私、どちらかというと登場人物が多い作品の方が好きでして、アラフォー野郎さんもご指摘のとおりこの作品は多彩な人々がふんだんに出てくる。その視点からもオススメなんですよねー!!

この人アヤシイ。
こいつ、落とし穴っぽい。

こういう人物を犯人候補からはずすと最後で泣きを見るんだよなあ…

などと迷いまくるのも、ミステリーを読む上での醍醐味のひとつですから。

私は、この人あのシーンでなんて言ってたっけ?なんぞと何回も前のページを繰りなおして読み返したりします。

そういうところも、紙の本ていいなと思える点なんですけど。

また本棚や床に積み上げてある本の背表紙なんかを眺めて、あの本はこうだった、こっちのはああだったなんて思いだしたりするのもわりと好きです。

ま、それはさておき「マギンティ夫人」ですが、どうして練りに練ったと感じてしまうのか?そのポイントは

人が写真を大切にする理由

なるものをポワロが解説しているからなのじゃないか、と考えるのですよ。この解説部分こそ「マギンティ夫人…」の核なんじゃないか?って気がします。ハイ。

あの部分を読んだ時、

ホントに、まったく、そのとおりだ!

と、それまでボンヤリと分かったつもりでいたことを、もう、これでもかってくらいハッキリと、細部にいたるまで完璧にことばにしてもらえた気がしたものです。

僭越ながらかの名著「ドミノへ」を持ちだすまでもなく、写真がキーになる話はジャンルを問わず枚挙にいとまがない。
しかし、あんな風に解説してある作品て、ほかには知らないのです。

アガサとの例の夢のお茶会の折には、この解説部分があったからこそ「マギンティ夫人は死んだ」が創られたのだろう?と幾度となく迫っています。

アガサの返事はいつもながら

「ウッフッフ」ですけどね。

私とクリスティ - 猫山月彦のミニエッセイ

シャーロック・ホー…

ところで、シャーロック・ホームズって、お好きですか?
ハッキリ言って、私はキライなんです。

どうも好きになれない。

映画とかテレビドラマも含めて、どの作品もおもしろいと思ったことがないんです。

主人公のシャーロックをはじめとして、登場人物に魅力を感じたことがない。
読めば読むほど、観れば観るほど、ただひたすらバカバカしくなるばかりで、しまいにハラが立ってきてしまうのです。

アレのどこがいいんだ?!というのが私のホームズ観。
なんでこんなにモテまくってるワケ?さっぱりわかりません。

ホームズを一番最初に読んだのは小学生の時でした。五年生くらいじゃなかったかな。
四年生だったかもしれない。

作品は「まだらの紐」でしたけど、子供心にもバカバカしいだけでした。正直なところいわゆる「お子サマ向け」作品なのか?と思ったほど。

そもそも「お子サマ向け」ってなカンジの作品―小説でも映画でも―が、私はキライでした。
当時は自分の気持ちを表すことばを知らなかったけど、つまりは子供だからとナメられてる。理解できないだろうと決めつけられている。

という、屈辱感を伴うからだったと思います。子供が活躍するような作品もキライでした。現在でもそれは変わってません。
本気になれない、といいましょうか。
そしてこの気持ちは、新旧問わずあらゆるホームズ作品に共通して抱く感想なのであります。

後にポーの「モルグ外の殺人」を読んだ時にこの「まだらの紐」を思いだしましたが、感想はまるで逆でした。

わずかばかりの灯りがかえって闇を濃くする、あのノワールな不気味さ、怖かったです。映画になっていたのもテレビで観ましたが、長い影を曳くような暗い映像美にシビレましたね。
「アッシャー家の崩壊」なんかも、結末は読めてるのに引きこまれてしまう。

なのにホームズシリーズはムリ。オリジナルなものだけじゃなくて、ダウニーJrさんやカンパチさんが演ってる新しいホームズも悪いけどつまんない。

おそらくその理由の一つとしては、私が大がかりなトリックがキライだということがあると思います。
大がかりなトリックほど、種あかしをするとシラケルものです。最後に肩すかしをくらった気分になってしまうのです。

しかしホームズって、そういう側面が持ち味の存在ですから、おそらくこの先も私が好きになることなないでしょう。

ただ、ドイルさんは私の敬愛する作家の一人でもありまして、何故なら、あの「失われた世界」を書いてくれた人だからなのです。
私にとってドイルさんはホームズの生みの親ではなく、失われた世界の生みの親なのです。

あんなワクワクする話って、今だに他にはないですねー!!今でも冒険ってことばを聞くとまっ先にあの話が浮かびます。
ちなみにその次に浮かぶのはジュールヴェルヌの「地底探検」なんですけど。
恐竜モノで秘境モノ。(どちらも映画がまた良かった。)

てよりも、恐竜モノは秘境モノであってほしい。恐竜が登場する冒険SF小説の舞台は秘境でなくてはイケナイ!
今や地図上の空白なんかなくなっちゃってるけど、南極大陸の氷の下とか地球空洞説とか、どこかにヒネリ出して秘境にしてほしい。
で、そこに行けるのは探検家たちだけ。
誰でも行ける遊園地であってはいけないし、間違ってもテレビ中継とか戦車とか軍用ヘリコプターなんか登場させないでくれ。
ゴジラもだけど、町中を歩くティラノとか見たくない。

ということで、アガサファンとしては、ホームズみたいに新しい設定でのポワロを見てみたいのです。
現代に蘇らせて―別に現代でなくてもいいんですけど―ダウニーJrさんやカンパチさんが演ってるみたいな、新しい事件に立ち向かわせてもらいたいワケ。

どうしてホームズにできてポワロにできないのか?

「カーテン」で死んでしまったからかもしれないけど、ホームズだって生きかえったんだし、そこらへんはなんとかなるんじゃないでしょうか。

肉体までの復活は難しくても、魂だけ誰かに憑依しちゃうとか、サ。

「カーテン」はユニークでおもしろい作品だったけど、やっぱりポワロを死なせちゃったのはもったいない気がするんだけど。

私とクリスティ - 猫山月彦のミニエッセイ

翻訳者の力量か、私…

「ドミノへ」を読んでくださった方から、猫山はアガサ・クリスティが好きなのではないですか、というコメントをいただいたと丼丼が教えてくれました。

クリスティの雰囲気が良く出ている作品だと評していただけた、とか。
嬉しいかぎりです。ありがとうございます。もう、サイコー!

これ以上のお誉めのことばはありません。

正にそのとおりでして、これまでも何度も申していますようにアガサの世界に夢中であります。あんなに気持ちよく、鮮やかに人を騙せる作家など二人といないと思っております。
「ドミノへ」を書くにあたっても、少しでも彼女の世界に近づけたらと願いつつ書きました。

ですから、

ナルホド、伏線というのはこういうふうに入れるのか、とか、そうか!、読者をミスリードするにはそういう具合に表現するワケね、などと参考にさせてもらいました。

これをアガサに打ち明けたのはもうだいぶ前になりますが、例によってなにも言ってはくれませんでした。でも、満更でもなさそうでしたよ。チラッと小鼻が動いてしまったのを見逃す私ではないのです。

ア、これ脳内会話ですのでシンパイしないでください。よくやってるんです、アガサと。

それでも、アガサの機嫌を損ねてしまうようなことは言わないようにしています。最近更年期だとかで落ちこみやすくなっているらしいので。

譬えば、
このトリック、ちょっとゴーインすぎるんじゃないかな?とか
このヒントで気づけってムリっしょ!とか。
言わないように気をつけてます。
ほかにもアガサの表現力ってスゲッ!と舌を巻いてたら、実はソレ、どうやら翻訳した人の文章だったらしいような…なんてのも。

まあ、川端康成でさえ、ノーベル文学賞を受賞した時に、翻訳者であるサイデンステッカーさんのおかげと発言したくらいですから、翻訳者の力ってホント凄いんでしょうけどね。

具体的に申しますと「謎のクィン氏」という短編集のことでして、これが数あるアガサの作品の中でも私の推しのひとつなのです。
何がイイって、シニカルで気取り屋でチョー俗物のオッサン、サタスウェイト氏と人間のフリをしている悪魔としか思えないクィン氏の空気感。

もう信じられないくらいイイ!

よくまあ、こんな人物像が創れたものだと、身のほどもわきまえずシットしてしまうほどなのです。中でも、最終章の最後のところで、ついにクィン氏が魔モノとしての正体を現すシーン。圧巻!

ご紹介しますと、いつもながらの簡潔な文章でこう書いてあります。

サタスウェイト氏には目の前のクィン氏の姿が、突然空に向かってぬうっと大きく、引きのばされたように思えた。

どうです?凄くないですか、この文章。情景が目に浮かびますよね。

ところが、ですよ。

前回この短編について書くにあたって、実際にこの文章にもう一度触れてみようと思い、この文庫本を書い直したのです。最初の本は、もうとっくに人に譲ってましたので。

で、読んでみたらどうでしょう。「空に向かって」や、「引きのばされたように」ってのがないじゃありませんか。

そこが気にいってたのに……。

どういうことなのか?

考えてみました。たぶん前に読んだ本の翻訳の方が、読者がイメージしやすいように原文を補足していたのだと思われます。つまり私が感動していた部分は、アガサではなく翻訳者さんの力量だったワケです。
ね、アガサには言えないでしょ?

しかしながら、でも、待てよ。と思ったのです。

ホントに翻訳の方が補足していたのだろうか?

私が最初に読んだのは、もうずいぶん前のことです。もしかして、私の脳が自分の気にいるように脚色を加えていたということはないだろうか?
そしてあたかも、それが正しい記憶であるかのように思いこむ。

有りうる!

年配の男の胸から上が写っている古い白黒写真があったとする。何年か後にその写真を思いだすと、右手にパイプを持った男の影像が脳裏に浮かんでくる。
パイプどころか手さえ写っていなかったのに。

これは写真を見た時、その古さが昔の時代背景を想起させ、この年代の当時の男ならパイプなんぞをくゆらせていたかもしれないな、などという具合にイメージを膨らませたあげく、本人はそう考えたことを忘れてしまい、パイプを手にしていたイメージだけが脳裏に刻まれるからなのだ。

とするならば、

最初に「謎のクィン氏」を読んだ時に、ほかでもないこの私の脳が、アガサの足りなかった表現を補足していた文章だったのだ!

ということも有りうるのではないでしょうか?

ココ、大事です。分かりますね。

気づかなかった方のためにもう一度書きます。いいですか。

アガサの足りなかった部分を、このワタクシが補足した。

ここですよ。

もちろん、これも自分の胸にしまっておくべきことのひとつです。アガサには言わないほうがいいでしょう。

そして次のアガサとのお茶会には、いつもよりフンパツしたケーキを用意することにしましょう。

皆さんも、それがいいと思いませんか?

私とクリスティ - 猫山月彦のミニエッセイ

ペギー葉山さん、井…

昨今は「ドミノ」といえば、ピザ!でしょ?私も、インスリンを手ばなせない身をも顧みないで食べてしまっております。

なんであんなにおいしいんですかねえ……。

これもドミノつながり、ということもあって「ドミノへ」もこのピザのようにみんなに愛されるようにと、去年は丼丼と二人で「山手線一周ドミノ・ピザ巡り」なることもやってみました。ただ巡っただけで買ったワケじゃなかったのですが、お店が各駅ごとにあるみたいだったのにはびっくりでした。やっぱりスゴイ!真夏の暑い日でヘトヘトになりましたが、不思議な達成感もありました。

私は病身ゆえに(こんな時は糖尿病も便利)ナカヌキでしたけど、丼丼は完歩!という結果でした。

その上マメな丼丼、驚いたことに手作りのちっちゃなクス玉まで用意していました。金色の紙がはってあって、糸を引っぱると割れて、中からちゃんとタンザクが出てきて、紙吹雪が舞ったのにはマジ、カンドー。
夕方の人出の多い時刻でしたので、隅っこに行って、線香花火をする子供のようにしゃがみこんで割りました。

やっと落ちつきだした夏の日差し、遠い日を偲ばせる夕あかりの中で幻のように揺れた金色のくす玉。

ホントに「8月の夢花火」みたいでしたね。二人とも足は痛いしクタクタだったけど、ボクらの心は夏模様でした。

ハイ、胸を張って言えます。

あの一瞬は少年!

少年に還ってましたとも!

恩田陸さんの小説にも「ドミノ」というコメディがありますよね。続編の「ドミノin 上海」を先に読んでしまったのですが、人間たちのドタバタを尻目に、一人冷静すぎるパンダの浮きっプリがイケてます。

007のボンドガールにも「ドミノ」がいますね。「サンダーボール作戦」のヒロインがドミノ。クローディーヌ・オージェが演ってましたけど、ハマリ役でしたよね。ホント、きれいだった。

特に好きなのはカジノのシーン。

カードテーブルでスペクターの幹部の黒い眼帯なんぞをしたいけすかないラルゴの横に座って、ボンドとラルゴのカード勝負のゆくえを、タバコ喫いながら興味津々で眺めてるシーン。

これぞ「ドミノ」ってカンジの美しさでした。

この映画を観たのはペギーさんの歌を聴いた数年後で、歌の中の「ドミノ」と違うことはもちろん分かってましたけど、このオージェさんは正に「ドミノ」でしたね。007シリーズで最初に観た作品でしたから、なんとなく縁みたいモノも感じたモンです。これもドミノつながり。

サンダーボールは「ネバーセイ・ネバーアゲイン」のタイトルでリメイクされ、二代目ドミノはハリウッドを代表する美人スター、キム・ベイシンガーでした。まさかの金髪のドミノ。でもなかなかオツでした。

ドミノってカードゲームでもあるようですし、けっこうフカイですね。

食べて、聴いて、観て、読んで、遊んで、ほかにも描いて、とか、作って、とかあるんでしょうか?知ってたら教えてください。

私とクリスティ - 猫山月彦のミニエッセイ

ペギー葉山さん、井…

なんと、井上陽水さんも「ドミノ」がお好きなのだそうです!

ネットで偶然にそんなブログを見つけた時は、いやもうびっくりしましたねー。

というのも、それまで「ドミノ」という歌を好きだと言った人はおろか、この曲名を知っていた人さえ私の周囲ではたった一人しかいませんでしたから。その一人というのは私の母親でして、ある日ラジオから流れてきたペギー葉山さんのこの歌を、母は「久しぶりに聴いた」と懐かしがっていたのです。

どうやら1950年代の歌だったようで、私の友人たちが知らないのも道理というわけです。
もちろん私も、その時が聴いたの初めて。というよりも、実はその時ただ一度しか聴いてないのです。

でもただ一度聴いただけのその歌が、何故か記憶に焼きついてしまったのですよ。

あの「ドミノ・ドミノ」とせつなげに呼びかける歌い出しが何故か頭から離れなくなりました。

陽水さんも言っておられましたが、その当時でさえずいぶん古風な歌詞だなと思ったもんです。

「神の与えし天使」とか「とこしえに」とか。その古風な言いまわしで、気まぐれでつれなくて、おそらく美しいドミノという恋人に永遠に愛することを切々と訴えるのです。ちょっとばかりMっぽいかもしれません。ハイ。

ま、それはいいとして、その心情の吐露が「ド・ミ・ノ」という音の響きとマッチして、早熟ぎみな小学生だった猫山少年の胸に刻みこまれてしまった、というワケなのです。それこそ「とこしえに」。

だもん自分のミステリー小説を書くとなれば、謎めいてて不誠実で、嘲笑的で、それなのにというか、それだからこそ抵抗することさえできずに惹かれてしまう美しいヒロインとなりゃ、名前は「ドミノ」以外に有り得ませんよ!

これこそ「お約束」ってもんでしょ?!

というわけで誕生した「ドミノへ」ですから、ここはどうしても陽水さんに読んでいただきたく、献本させていただきました。

真犯人分かるかな?

私の「ドミノ」もペギーさんの「ドミノ」のように気にいってもらえるといいのですが――。

ところが、お送りしたあとになって私が検索したものはブログではなく、2001年に出たインタビュー記事の一部だったことが分かりました。私、実は器械オンチでして、そういったものが載っているのはすべてブログだと思いこむ傾向にあります。

心配性の書生の丼丼が、どうもおかしいと思ったらしく、調べ直して分かったことで、大変失礼いたしました。

しかし、その記事の全文を読んでみると、これがまたもやびっくり!

陽水さんが「ドミノ」をカバーしていたのです!おかげでワタクシ、生涯二度目となる「ドミノ」を聴くことができました。

いやあ、本当に美しい曲です。新めてそう思いました。透明感ある陽水さんの声で聴くと、また素晴らしい。

新しい発見もありました。「ドミノ・ドミノ」という歌い出しがサビみたいな曲調のせいだと思いますが、その部分はハッキリ覚えていたのですけど、「わが思い知りながら 何故に 何故に」から先は見事に自分なりの作詞で覚えこんでいました。この度キチンとオリジナルで覚え直すことができた次第であります。ヨカッタ!

発見はもうひとつ。

陽水さんも、ペギーさんの「ドミノ」をたった一度しか聴いたことがないそうなんです。

なんでも「徹子の部屋」にペギーさんが出演なさっていたのを偶然にご覧になったそうで、その折ペギーさんが「ドミノ」を歌ったのを聴かれたのだとのことでした。

陽水さん、その一度だけでトリコになったというんですよ!

そうなんです!テレビとラジオが違うだけで、まったく私とおんなじだったんです!
スゴくないですか?、これ!

ここまでくればドミノつながりと云ってもいいのでは…?
てか、ヤッパ「ドミノ」って魔性なんですねえ。そうとしか思えない。

とにかく、その記述を目にした時、自分としてはメチャ嬉しく、一気に陽水さんを身近に感じたもんです。

同じマンションに住んでたんだ?みたいな。

機会がありましたら皆さん「ドミノ」を聴いてみてください。私が大袈裟な人間じゃないってことが、きっとお分かりいただけると思います。

私とクリスティ - 猫山月彦のミニエッセイ

ネコ型人間と心配性…

で、なに気にまたも紅茶の夜となり、もしかして不眠症の原因はコレかな…?などという疑惑が心を横切ったりもするのですが、ナニブン意志の弱いことでは人後に落ちない私のこと、好きなものはやめられない。

この意志の弱さ、極めて人間的であります。丼丼にはもっと自己管理をきちんとするようにキビシク注意されるのですが、まるで気にはなりませんです。

エ?丼丼?

ハイ。最近はけっこう、あーだこーだとそれとなく、あるいはムキつけに言ってくるようになりました。あーいう心配性の人間というのは、こういったライフスタイルを見ていられなくなるようです。

ですが、私のようなネコ型人間は自分なりのルールをちゃんと持っておりまして、それに従って生きているだけなのですよ。
そりゃ、多少世間の標準とは違っているのかもしれませんが、それがネコ人間としての生きザマとでも申しますか、マ、そんな上等なもんじゃないんですけど…、そういったモンなんです。

しかし、それがどうやらグータラしてるように映ってしまうらしいのですよ、困ったもんです。

しかししかし何を隠そう、こんなネコ人間人生をヨリ濃く謳歌できるか否かは―ハイ、たぶん私ほかのネコ型人間よりも謳歌してると思いますが―意外やイガイ、こういった心配性人間が身近にいるからなのであります。言ってみればノラ猫と飼い猫の違いみたいなもんで、その差はどんだけお気楽でいられるか?ってことに尽きるワケです。

ノラ猫は自由だ!なんてのは大きな大間違い!人間の勝手な想像にすぎません。野生の暮らしはキビシイし、飼い猫になったからってネコとしての自由さが損なわれるわけではないのです。

エニウェイ、丼丼がアレやコレやと気をまわして心配してくれるからこそのネコ人生!

自分では思いもかけないような細かいことまで気にかけてくれてしまうのですから、自分で心配する必要などなくなってしまうのであります。これぞヘソ天。心配丸投げ、ワッハッハ。

その上丼丼、口ではアレコレ言いながらもその気配りを”書生のツトメ”なんぞと言ってガンバっちゃうんですからたまりません。こっちは益々ヘソ天。心おきなくエビ反りヘソ天、これでもかってなもんです。

え?こんなことを書いてしまうと丼丼にバレて、見限られてしまうんじゃないかって?

それが大丈夫なのがスゴイところ。

よくできたもので、心配性人間という種属は、相手が心配を丸投げしてるとわかったって見捨てられない。むしろ、それだからこそ自分がガンバンニャーいかんとばかりにハリキッてしまうのです。それこそ、心配性人間の心配性たる由縁。

そのフトコロの深さたるやハンパない。

丼丼に至ってはブラックホール並みです。そこまでいかなくても、フツーに心配性であれば太陽系がすっぽり入るくらいには深い。

なんたって、誰かの心配をせずには呼吸もままならない。心配のタネを探して生きているといっても過言ではない。誰かの心配ができなくなったら、当人が心肺停止になっちゃう。

ふふ、今のシャレ、分かった?レベチすぎた?繰り返さなくていい?

じゃ、そういうわけで、ネコ型人間に心配性人間が不可欠なのがお分かりいただけたことと思います。まだ心配性人間を捕獲できていない皆さん、是非とも確保することをお勧めします。

その際の狙い目は、本当にネコを二匹飼っている人間。二匹目を飼う理由の多くは、一匹だけじゃかわいそうだから、とか、オトモダチがいれば一匹目が淋しくないだろうから、なんてあたりでしょう。

なんと優しい飼い主さんなんだァ!と以前は無邪気にも思いこんでいたものです。ハイ、アガサと知りあうまでは。

そうです。やはりアガサは登場してくるのです。アガサの作品を読んで分かったこと、というのかアガサに教えられたことは

”人間そのものがミステリー”

人の心って、ホントに分からない。見たまんまを信じちゃいけない。

人間には必ずウラがある。あるいは奥深い。単純じゃない。だからおもしろい。陰影があるからこそ魅力的。でもウラがあるからって、悪とは限らない。

そうですよね。自分の気持ちを考えてみればよく分かる。

嘘をついたり、ことばと裏腹なことを考えたりすることなんか日常的なこと。ごくごく普通な当り前。

で、そういう目で視てみると、周囲のことも自分のことも違った意味あいや色彩を帯びてくる。これは仲々愉しい発見です。

だから、そんな目線では心優しい飼い主の”心優しい”もただそれだけじゃないのではないかと思えてくる。

そう、実はそれこそ心配性ってことなんです。そもそも、ネコくらい気がかりになる存在ってないんです。世の中に。なんか世話をやきたくなる。心配性には運命のパートナーみたいなもんです。

つまり、”ネコ好きイコール心配性”なる構図が成立してるのです。割れナベに閉じブタ。心配性にウザ猫。尊いのです。

そしてこの”ウザ猫”をウザネコ人間に置きかえたって違和感はない。イケます。

ではどうして二匹飼っている人間が狙い目なのかというと、一匹しか飼ってない人間より心配性としてのキャパが大きい、つまり、一匹だけでは
キャパを埋めきれてないということだからです。更に、そのタイプの人間は潜在的に三匹目を飼うキャパ的余裕を持っています。

謂わく、二匹飼うのも三匹飼うのも一緒!ってやつです。すごいんです。

この三匹目を目指すことこそあなたの使命。ネコとネコ型人間の違いは体の大きさぐらいしかないのだということを忘れず、ガンバルのです。

但し、多頭飼いをしている人間には注意が必用です。ケタはずれにキャパがデカいってこともありますが、タマに心配性としての自分のキャパを見失っている場合もありますから。

ヘタをするとこっちが相手の心配をしなきゃならなくなっちゃうというオソロシイ事態に陥ってしまいます。

あくまで、二匹飼いの心配性狙いでいってくださいね。